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東京高等裁判所 昭和45年(ネ)1356号 判決 1974年12月19日

控訴人、被控訴人、第一審原告(「原告」と略称する)

宗教法人

東照宮

右代表者代表役員

額賀大興

右訴訟代理人

高橋正雄

ほか二名

控訴人、被控訴人、第一審被告(「被告」と略称する)

宗教法人

輪王寺

右代表者代表役員

菅原栄海

右訴訟代理人

佐久間渡

ほか四名

主文

1  原判決中原告敗訴の部分を取消す。

2  別紙目録(一)乃至(三)記載の各建物が原告の所有であることを確認する。

3  被告は、右各建物につき、宇都宮地方法務局今市出張所昭和三十年十月十九日受付第二二二八号の所有権保存の登記の抹消登記手続をなすべし。

4  被告の控訴を棄却する。

5  訴訟の総費用は、被告の負担とする。

事実《省略》

理由

《前略》

五本件七堂塔の所有権の帰属

(一)  前項で述べた目光山における神仏分離の経過にかんがみれば、本件七堂塔が、いずれもその建造の当初から、終始東照宮の所属であり、所有であつたことは、疑の余地がないと思われる。

徳川家康の神霊を日光山に勧請し、こゝに東照宮を造営するに当つて、日光山座主天海の果した功績は大であるが、勧請の主体は徳川幕府であり、東照宮社殿を造営したのも徳川幕府である。本件七堂塔のうち、五重塔及び虫喰鐘堂を除く他の五堂宇は、神殿の一部をなすものとして、寛永の大造替の際に他の社殿とともに建造され、また、五重塔は、もと酒井忠勝が東照宮神前荘厳のために建立寄進したもの、虫喰鐘堂は、朝鮮国王が家康霊追福のために寄進した朝鮮鐘吊釣のために、幕府が東照宮社頭に敷地を定めて建造したもの、両者いずれも東照宮神殿の一部をなすものである。徳川幕府は、東照宮を独立の法主体として認め、これに社領の寄進をも行つてきたが、本件七堂塔は、徳川時代を通じて、神殿の不可分の一部をなすものとして、その所有権は東照宮そのものにあつたのである。東照宮の祭祀は、徳川時代を通じて、僧侶によつて主宰されたけれども、これらの僧侶は、彼等自身の名においてはもとより、「満願寺」の名においても、また、彼等の首領である天海及びその後継者である日光山座主の名においても、本件七堂塔を所有したことは、かつてなかつた。僧侶は、本件七堂塔を含む東照宮神殿の管理を徳川幕府によつて委託されたに止る。この管理委託の関係は、徳川幕府の崩壊とともに、又は遅くとも明治四年、僧侶が維新政府によつて東照宮祭祀の任務を解かれ、この任務がもつぱら旧社家の手に委ねられるに至つた時に終了したのである。

東照宮は、明治維新の際にも廃絶させられることなく、神社としての存続が政府によつて承認されるとともに、東照宮祭祀の任を離れた僧侶には、新たに一寺を創立して、これに満願寺の旧号を用いることが承認された。そして政府は、神仏分離措置の一環として、本件七堂塔を東照宮神地内から満願寺寺地へ移遷させることゝし、明治四年、僧侶に対しこれが寺地への移遷と引取を指令した。当時もしこの移遷が実行されていたならば、相輪や三仏堂と同様に、本件七堂塔は満願寺の所有に帰したであろうが、本件七堂塔の寺地への移遷は、竟に実行に移されることなく、政府は、本件七堂塔の東照宮境内据置を承認することによつて、さきに発した移遷の指令を撤名し、結局、これらの堂塔が東照宮の所有たることにはなにらの変更も生じなかつた。東照宮が仏教様式の建造物であることの明かな本件七堂塔をその神地内に所有することは、神仏分離の建前から許される筈がないとの主張が被告によつてされるけれども、明治維新政府が掲げた神仏分離政策の目標は、神地内から仏堂、仏器、仏具の類を除去することにあつたのであつて、これらの仏物の「所有」を問題としたのではなかつた。従つて、政府が当初発した本件七堂塔の移遷の指令も、単にこれらの堂塔の神地から仏地への移転を命じたに過ぎないのであつて、この指令のなかにこれらの堂塔の所有権を満願寺に付与するとの処分が含まれ、あるいは、移遷の指令とともに、所有権付与という処分が同時に発令されたものと解することはできない。また、もし移遷が実行されたならば、その結果として、満願寺は本件七堂塔の所有権を取得することゝなつたであろうが、移遷が実行されなかつた以上、満願寺による所有権取得という結果の生ずる余地もないのである。

しかのみならず、政府が本件七堂塔の東照宮神地内据置を承認したということは、少くとも本件七堂塔に関する限り、政府が神仏分離政策そのものを放棄したことを意味する。神仏分離政策の眼目である仏物の神地からの除去を断念した政府にとつては、本件七堂塔の所有権の帰属の如きは、もはや政府自らが決定すべきことではなく、社寺間において自主的に決定させれば足りることである。本件七堂塔のうち、旧本地堂及び輪蔵に関する明治十三年九月二十四日付の議定並に五重塔に関する明治十四年六月九日付の議定は、右堂塔の所有権が東照宮にあることを前提として、満願寺が仏像や経巻の保管及びこれに関連する仏事執行のために、東照宮の祭典に支障がない限りとの条件のもとに、これらの堂塔について使用権を有することを取極めたものである。また、旧護摩堂は、東照宮が既に社務所としてこれを使用し、鐘鼓二楼及び虫喰鐘堂は、満願寺の法用に必要不可欠のものではなく、これらの建造物が東照宮の所有たることについては、その据置が決つた時から、既に社寺間において暗黙の諒解があつたと見るべきである。

東照宮は、昭和二十一年勅令第二十一号明治三十九年法律第二十四号官国幣社経費ニ関スル法律廃止等の件ノ施行により、明治四年太政官布告第二百三十五号が廃止されたことに伴つて、国家の管理から離れることゝなつたが、宗教法人令(昭和二十年勅令第七百十九号)の施行に伴い、昭和二十一年六月、同勅令の規定による宗教法人として存続し、更に現行宗教法人法(昭和二十六年法律第百二十六号)の施行に伴つて、昭和二十九年三月、同法の規定による宗教法人たる原告として存続することゝなり(梅田鑑定書)、かつて東照宮が有した地位を承継した。他方、満願寺は、本坊輪王寺の旧号復称方を栃木県に願出て、明治十六年十月五日、右願が聞届けられ、以後、寺号を輪王寺と改め(乙七三の二日光山沿革略記)、東照宮と同様に、順次、旧宗教法人令及び現行宗教法人法による宗教法人として存続して現在の被告となつた。

明治初年の神仏分離によつて、本件七堂塔が東照宮の所有たることにはなにらの変更も生じなかつたことは、上に述べた通りであるから、その後において、本件七堂塔の所有権の帰属に異動を生ずべき事由が生じていない限り、本件七堂塔の所有権が原告にあり、被告にないことは、明かといわなければならない。

(二)(1)  東照宮は、明治十五年三月十一日、別格官幣社東照宮明細図書(この明細図書が明治十二年六月二十八日付内務省建乙第三十一号に基くものであることについては、甲四六岡田解説、乙一一五石井回答書第三質問一を見よ。)を栃木県経由内務省に提出したが、本件七堂塔は、仮殿鐘堂とともに、東照宮所属の社殿として、右明細図書に掲記図示され(甲一一の一乃至四)、これに反し、満願寺が明治十二年九月に届出た日光領満願寺明細帳(乙九八の二)には、本堂(移遷後の三仏堂)や相輪は掲げられているが、本件七堂塔は、東照宮仮殿鏡堂とともに、掲げられていないのである。

被告は、上記内務省達乙第三十一号による神社又は寺院の境内にある建造物を所有権の帰属にかゝわりなく登載する建前であつたのであるから、本件七堂塔が東照宮の明細図書に掲げられ、満願寺の明細帳に掲げられていないことは、本件七堂塔が満願寺の所有ではなく、東照宮の所有たることの根拠とはなし得ない旨主張するけれども、この主張が強弁に過ぎないことは、後年、満願寺改め輪王寺が、自ら本件七堂塔について、栃木県に明細帳脱漏記入願を提出していることから見ても明らかである。即ち、輪王寺は、栃木県に対し、大正二年二月十四日付で、本件七堂塔のうち旧本地堂を除く六堂塔及び東照宮仮殿鐘堂について(乙一八の一、二)、更に、大正七年二月二十八日付で、旧本地堂について(甲四五の二)、これらの建造物は、いずれも「明治四年神仏分離ノ際当寺所有ニ属セシメラレ」たとして、それぞれ明細帳脱漏記入願を差出しているのである。なお、大正五年から六年にかけ、栃木県が仲に立つて、これらの塔堂の所属を回り社寺間で交渉が行われたが(乙一九、乙二〇の一、二、乙二一の一、二、乙二二の一、二、甲四五の三)、栃木県から禀議を受けた内務省社寺局の意見は、「社寺所属建造物ノ件」について「輪王寺ヨリ提出セル証憑書類ニ依レバ建物ノ管理修繕及堂内安置仏ノ処置等ニ関シ云為セルモノニシテ其所有権ヲ定ムヘキ確証トハ難認」というのであつて(甲四五の四、五)、結局社寺間の交渉は成立に至らず、満願寺の明細帳脱漏記入願も聞届けられなかつた(梅田鑑定書)。このことは、東照宮が大正十四年一月十六日に栃木県に提出した東照宮明細帳(甲一八の三。なお、この明細帳が大正二年内務省令第六号に基いて調整されたものであることについては、梅田鑑定書を見よ。)に、東照宮所属の社殿として、旧護摩堂(上社務所として登載されている。)、旧本地堂、鼓楼、鏡楼、輪蔵存び五重塔が掲記されていることからも窺知ることができる(もつとも、この明細帳には、虫喰鐘堂が脱漏している。)。

(2)  東照宮は、五重塔に関する明治十四年六月九日付の議定が成立した翌年の三月から五重塔の修理に着手し(甲九四の一乃至六東照宮社務所日誌)、同年十月には、内務郷に宛てゝ、「五重塔破損所修営之儀ニ付伺」を差出し、十月三十一日付で、右伺が聞届けられ(甲六の二)、更に、明治十八年十月十四日付で、「朝鮮鐘屋根雨漏ケ所修繕之儀伺書」を栃木県に差出し、これまた十一月九日付で聞届けられている(甲一三七)。大正年間における本件七堂塔の大修繕工事が東照宮の負担において行われたことは、これらの工事の決算書である甲五五の一乃至三によつて、これを窺知ることができる(原審額賀(3))。また、日光における二社一寺の建造物の保存を目的として明治十二年に設立された保晃会が、明治三十三年四月に、二社一寺の大修繕のために調製した社堂台帳(甲五六の一乃至三、原審額賀(3)、当審額賀(1))にも、本件七堂塔は、仮殿境内鐘堂とともに、東照宮の部に掲げられ(甲五六の二(イ)、(ヘ)、(ニ)、(ホ)、(ヘ)、(ト)、(チ)、(リ))、輪王寺の部には、滝尾不動堂、阿弥陀堂、千手堂、多宝塔、旧大楽院境内教旻僧都廟塔、深砂王堂、中禅寺観音堂、妙見堂等とともに、「東照宮境内御本地堂内部」が掲げられている(甲五六の三)。社堂台帳のこれらの記載も、本件七堂塔が東照宮の所属であり、所有であることについて、社寺間に異議がなかつたことを示すものというべきであろう。更に、戦後、文化財保護委員会事務局の指導によつて、日光二社一寺国宝建造物修理事務所が作成した日光二社一寺国宝建造物修理工事計画書(甲二〇)には、昭和二十五年から三十七年までの二社一寺毎の工事施行箇所と各年度の工事予算が示されているが、旧護摩堂及び虫喰鐘堂を除く他の五堂塔は、いずれも東照宮の部に掲げられており、このこともまた、これらの堂塔が東照宮所有たることを前提とするものと見ることができよう。

なお、明治三十一年、二社一寺の間で作成し、同年七月三十日付で栃木県によつて認可された「二荒山、東照宮、大猷廟参拝拝観規程」には、本件七堂塔のうち旧護摩堂(これは、東照宮社務所であるため、拝観区域から除かれたものと考えられる。)を除く他の堂塔を東照宮関係の拝観区域のなかに掲げているが(甲一二六の一乃至三)、東照宮御旅行地内の深砂王堂が輪王寺関係の拝観区域のなかに掲げられているところから見れば、この拝観区域の定めは、本件七堂塔のうち旧護摩堂を除く他の六堂塔が東照官境内にあることによるものではなく、これらの堂塔が東照宮の所有であることによるものと考えられるのであつて、これらの堂塔が東照宮の所有であることについては、当時の輪王寺側においても異議がなかつたことを示すものというべきであろう。

(3)  明治四十一年法律第二十三号神社財産ニ関スル法律及び同年勅令第百七十七号神社財産ノ登録ニ関スル件によつて、官国幣社、府県社以下の神社の所有する不動産は、申請により、地方所管の神社財産登録台帳に登録されることゝなつたが、東照宮も、右法律の規定に基いて、その所有の不動産の登録を栃木県に申請し、本件七堂塔も、東照宮所有の不動産として、大正二年十月十三日、神社財産登録台帳に登録された(甲九、梅田鑑定書、当審田二谷(1))。

(4)  本件七堂塔は、明治三十年法律第四十九号古社寺保存法第四条の規定に基き、明治四十一年八月一日、内務省告示第七十六号により、虫喰鐘堂を除き、いずれも東照宮社殿として特別保護建造物に指定され(甲一〇、梅田鑑定書)、昭和十九年九月五日、文部省告示第千五十八号により、七堂塔のすべてが、いずれも昭和四年法律第二十七号国宝保存法第一条の規定による東照宮所有の国宝として告示された(甲一二の一、二、梅田鑑定書)。更に、戦後になつても、本件七堂塔は、昭和二十五年八月二十九日付で、文化財保護法第百十五条の規定による東照宮所有の重要文化財に指定された(甲一三の三、梅田鑑定書)。

(三)  以上(二)において説明した諸事情は、いずれも、本件七堂塔が神仏分離の後においても、なお引続き東照宮及びその承継者たる原告の所有であることが、満願寺及びその承継者である被告自身によつて、そしてまた、国によつても承認されたことを示すものというべきであろう。その建造の当初から徳川時代を通じて、そしてまた、明治維新の際の神仏分離によつても変更を生ずることがなかつた本件七堂塔の所有関係については、その後においてもこれが変更の原因となるべき事由は生じていないのである。してみれば、本件七堂塔が現に原告の所有たるべきことは明らかであつて、原告の主張にかゝる取得時効の成否については、もはや判断の必要を見ないのである。

《後略》

(平賀健太 安達昌彦 後藤文彦)

別紙 目録、別冊一、別冊二《省略》

<参考>

東照宮対輪王寺の七堂塔の所有権の帰属をめぐる本事件の概要

一両社寺間の紛争の対象となつているのは、日光東照宮境内にある一切経蔵、薬師堂(鳴龍で有名)、旧護摩堂、鐘楼、鼓楼(以上いずれも寛永十三年(一六三六)、徳川三代将軍家光の時代に再建されたもの)、五重塔(はじめ慶安三年(一六五〇)に酒井忠勝が東照宮に寄進し、文化十二年(一八一五)に再建されたもの)、虫喰鐘堂(寛永二十年(一六四三)に朝鮮国王が東照宮に献納した朝鮮鐘を吊すために徳川幕府が建造したもの)、以上の七堂塔である。

この七堂塔の所有権が東照宮と輪王寺のいずれにあるかをめぐつて、明治以来両社寺間に対立があつたのであるが、本事件の発端は、輪王寺側が昭和三十年十月十九日に、この七堂塔を輪王寺の所有であるとして登記をしたことにはじまる。東照宮側は、昭和三十七年に輪王寺を被告として宇都宮地方裁判所に訴を起し、七堂塔の所有権が東照宮にあることの確認と輪王寺がした登記の抹消を求めた。宇都宮地方裁判所は、昭和四十五年に、七堂塔のうち、旧護摩堂、鐘楼、鼓楼、虫喰鐘堂については、東照宮が時効はよつて所有権を取得したとして、東照宮側を勝訴としたが、残る三堂塔については、所有権は輪王寺にあるとして、輪王寺側の勝訴とした。そこで両社寺とも、各自の敗訴となつた部分の取消を求めて、東京高等裁判所に控訴をしてきたのが本事件である。

二本件の七堂塔が、すべて、日光東照宮の社殿の一部として建造され、あるいは東照宮に寄進された建造物であることについては、両社寺間に争はないのであるが、この七堂塔の所有権の帰属をめぐる両社寺間の対立の起りは、明治初年、時の政府が実施した神仏分離政策に由来する。

明治維新の精神的原動力となつたものは、一般に王政復古の思想であるとされているが、維新の際には、この王政復古とともに、神道復古ということが一部の人々によつて強く唱えられた。この神道復古思想は、平田篤胤の国学の影響を受けた人々によつて唱えられ、国内の各地に見られる神仏混清を堕落であるとして、仏教の影響を受ける以前の神道の本来の姿を再現しようとする主張となり、この主張を唱える一派の人々が維新政府を動かして、こゝに神仏分離政策が実施されることゝなつた。この政策の目ざしたところは、僧侶の神前奉仕を禁じ、神社の境内にある仏教様式の堂塔、仏像、仏具などを取り除いて長年続いてきた神仏混淆の姿を改めるということにあつたのであるが、勢の赴くところ、やゝともすれば過激な様相を帯びて、全国各地における古来の霊地、霊場で、仏堂、仏像、経文などの破壊、焼却というような、いわゆる排仏毀釈の暴挙にまで発展したことは周知のとおりである。

日光においても、明治四年に、神仏分離が行われることになつたが、当時の日光県知事の適切な処理によつて、日光山内の神社仏閣は幸に破壊を免れ、この一大霊地を二荒山神社、東照宮および満願寺(明治十六年に輪王寺と寺号を改めた)という二社一寺に三分するという方針が取られた。そして時の日光県知事は、神仏分離の実施方法として、二荒山神社と東照宮の各境内地にある仏教様式堂塔を満願寺の境内に移すことにして、満願寺の僧侶に対してこれらの堂塔の移転引取を命じた。当時もし、この命令が、二荒山神社境内の三仏堂(現輪王寺本堂)や東照宮境内の相輪のように、本件の七堂塔についても、実行に移されていたならば、問題を後日に残すことにはならなかつたのであるが、本件の七堂塔については、明治七年から九年にかけて、逐次東照宮境内にそのまゝ存置するということに決定され、満願寺境内への移転はついに実現を見ないまゝに今日に至つた。ここに東照宮と輪王寺の対立の起源がある。

三この事件の争点の中心は、明治四年に日光県知事が満願寺に対してした本件七堂塔の移転命令と、明治七年から九年の間に行われたこの七堂塔の東照宮境内存置決定の効果をどのように理解するかということにある。東照宮側の主張によれば、本件の七堂塔は、建造の当初から東照宮の所有であつたのであり、維新の際、一たん満願寺境内への移転が命ぜられたけれども、これが取止めとなつて、東照宮境内存置ということに決定された以上、これによつて七堂塔の東照宮の所有であることは確定したのである、ということになる。これに対して、輪王寺側の主張によれば、東照宮は、その実質は、徳川家康の廟所であつて、満願寺付属の一祭祀施設に過ぎなかつたのであり、本件七堂塔はもともと満願寺の所有であつたのである、明治四年の神仏分離措置によつて、東照宮ははじめて満願寺から独立して法人格をもつようになり、本件七堂塔も一応東照宮の所有となつたが、当時の日光県知事は本件七堂塔の所有権を満願寺に与え、同時に満願寺境内への移転を命じたのである。明治七年から九年にかけて、本件七堂塔の東照宮境内存置ということが決つたが、これは満願寺境内への移転が取止めになつただけのことで、その所有権が満願寺に移つたということには変りはない、というのである。

東京高裁としては、細部の点は別として、大筋において東照宮側の主張を容れ、本件七堂塔はその建造の当初から一箇独立の神社としての東照宮の所有であつて、明治四年に行われた神仏分離措置にもかかわらず、東照宮の所有であることには変りはなく、そのまゝ現在に至つたという判断のもとに、東照宮側の全部勝訴の判決を言い渡した。

四この事件の訴訟事件としての特色は、証拠資料の中心が、双方提出のものを合せて三百通以上に上る文書資料であり、しかもその大多数が、明治時代、あるいは更にその以前に遡る時代の文書であることである。また、史学者、決制史学者、宗教史学者など学者の鑑定や証言が証拠として提出され、しかもこれらの学者の意見が、東照宮側に有利なものと輪王寺側に有利なものとのほぼ二つに分れていたことも、特色の一つということができる。更に事件の性質上、審理の範囲は、明治時代のみならず、徳川時代、さらにその以前の日光霊地の沿革にまでも及ばなければならない結果となつて、昭和四十五年に控訴がされてから満四ケ年余、この間口頭弁論も通じて二十四回の期日を重ね、判決書も、理由説明だけで五百頁を越える大部のものとなつた。この事件は、二つの宗教法人間の民事訴訟事件ではあるが、明治維新史の一局面が日光東照宮境内の七堂塔の所有権の帰属という点に集約された形で現われた観があり、単なる訴訟事件ということを越えて、史学の見地からも、興味と関心の対象となるものと思われる。このことも、この事件の一つの特色ということができよう。

五高裁判決の理由の大要を左に掲げる。

1 日光霊地の起源は、男体らを中心とする日光連峯に対する山獄信仰にある。現在の二社一寺のある日光山内の地域は、日光連峯の神々の春秋の祭りが行われた場所であつて、こゝには古くから僧侶が入り、ことに中世以降、比叡山に始まつた山王信仰の影響を受けて、日光連峯の神々は日光権現の名で総称され、日光山座主を首長とする僧侶たちが祭祀の主役を勤めた。僧侶たちは、いわば日光権現の社僧であつて、日光は、神仏混淆の一大霊地となつた。

2 川越の喜多院住職であつた南光坊天海は、徳川家康の信任が厚く、慶長十八年(一六一三)日光山座主となり、霊地日光山の復興に力をつくした。家康は、元和二年(一六一六)駿府城で死去したが、自分の死後一週忌を過ぎたならば日光山に小さき堂を建てて勧請せよ、関八州の鎮守とならん、という遺言によつて、翌元和三年(一六一七)遺骸は日光山に移され、東照宮の社殿がここに造営されて、家康の霊位は、東照大権現として神にまつられることとなつた。祖父家康を敬仰すること厚かつた徳川三代将軍家光は、寛永十一年(一六三四)、東照宮の社殿の大改築を行い、これが善美をつくした現在の東照宮の社殿となつた。徳川幕府の東照宮に対する尊崇はきわめて厚く、目光霊地における祭祀の中心は日光権現から東照大権現に移り、幕末にいたるまで、日光山座主職には皇族を迎えることが慣例となり、山内における座主の住坊(本坊)を輪王寺と呼び、座主職は門跡の名で呼ばれることとなつた。山内には本坊輪王寺を中心として、多数の僧侶の住坊があり、これらは衆徒、一坊という名称で呼ばれたが、僧侶たちのもつとも重要な任務は、東照宮の祭祀に奉仕することであつて、僧侶たちは、事実上、東照宮の社僧ともいうべきものであつた。日光霊地には神職者である社家もいたが、かれらは僧侶たちの下にあつて神事に従事した。

3 明治維新の際、政府は、一時、東照宮の存廃を問題としたが、やがて政府の方針は東照宮を存置することに決定し、明治四年になつて、日光霊地においても神仏分離をすることとなつた。この神仏分離の結果として、東照宮や日光権現のヤシロにおける僧侶の神前奉仕が廃止され、僧侶たちは満願寺の名において一寺を創立し、また、日光山内および奥日光の各所にあつた日光権現のヤシロは、二荒山神社の名で総称されることとなり、東照宮を中心として栄えてきた日光霊地には、二荒山神社、東照宮および満願寺(明治十六年に輪王寺と改称)という現在の二社一寺が鼎立することとなつた。そして政府は、同時に、神仏分離の趣旨を貫くために、満願寺の僧侶たちに対し、二荒山神社と東照宮の各神地内にある仏堂の満願寺寺地への移転引取を命じ、三仏堂や相輪などの移転はこの時に行われたが、本件七堂塔の移転については、当時の日光町民の激しい反対運動があつたほかに、政府内部においても、維新当初の神仏分離政策行き過ぎに対する反省があつて、明治七年から九年にかけて、本件七堂塔の寺地移転は取り止めとなり、従来どおり東照宮境内に存置されることとなつた。本件七堂塔は、東照宮の社殿の一部として建造されたもの、あるいは東照宮に寄進されたものであつて、それが建造された当初から東照宮の所有であり、明治初年の神仏分離措置にもかかわらず、東照宮の所有であることには結局なにらの変化も生じなかつた、

4 明治十三年から翌十四年にかけて、東照宮と満願寺(輪王寺)との間に協定が成立し、本件七堂塔のうち薬師堂には、いつたん寺地に移されていた薬師如来、日光・月光両菩薩などの仏像が遷座され、経蔵内にはいわゆる天海版一切経が従来どおり納められ、また五重塔内にも従来どおり仏像が存置されることとなり、これらの堂塔において僧侶が仏事を行うこともできることとなつたが、右の社寺間の協定は、これらの堂塔がいずれも東照宮の所有であることを前提として、仏像や経巻の保管、仏事執行のために満願寺僧侶による使用を認めたものである。

5 本件七堂塔が東照宮の所有であることは、明治から大正にかけて、本件七堂塔が東照宮の神社明細帳に掲げられていて、輪王寺の明細帳には掲げられていないこと、これらの堂塔の修理が東照宮の費用負担で行われていること、大正二年に、これらの堂塔が東照宮所有の不動産として栃木県の管理する神社財産登録台帳に登録されていること、これらの堂塔が、いずれも東照宮所有の建造物として、明治四十一年には特別保護建造物に、昭和十九年には国宝に、戦後昭和二十五年には重要文化財に、それぞれ指定されたことなどによつても、明かである。

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